或いはテトラの片隅で

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You are all that is dear to me in the world.

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春も半ばを過ぎ、教室を通り抜ける風が微かに温かみを帯び始めた頃。普段と何一つ変わらない放課後。私は生徒会委員の雑務を終わらせると、校舎を支配する喧騒から逃げるようにいつもの屋上へ足を急がせる。

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ひさかたの
雨も降らぬか
蓮葉
溜まれる水の
玉に似たる見む

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屋上にはプールが設置されているのだが、水泳部は人員不足により数年前に廃部、水泳の授業もないこの学校の屋上には誰もいない。
この仄暗い塔屋を抜け出せば、自分だけの世界があった。

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ただ、その日はいつもと違った。
張り詰めたスチール弦が擦れる音、奏でられた和音、細いながらも芯のある優しい歌。
見慣れない女の人がそこにいた。

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我が宿に
咲けるなでしこ
賄はせむ
ゆめ花散るな
いやをちに咲け

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こちらの存在に気付いた彼女は、私と目を合わすとまたすぐに視線を楽譜に戻す。
私は彼女の邪魔にならないように隣のベンチの一番隅に腰を下ろした。
水の無い薄汚れた巨大な水槽を眺めながら、彼女の歌を聴いていた。
次の日も、その次の日も、彼女はそこにいた。

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雨降らず
との曇る夜の
ぬるぬると
恋ひつつ居りき
君待ちがてり

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そんなある日、いつものようにベンチに座っていると、一粒の雫が膝に落ちる。
雨だろうか、なんて考えた途端ぼたぼたと大粒の雨が一斉に振り出して、傘を持っていなかった私は慌てて舎内に戻ろうとした時、そっと雨は遮られる。私の頭上に彼女が傘を差しだしていた。

その日空と地面をつないだ糸筋は、二つの水溜りを引き合わせた。

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今はもう遠いあの日、第4地区の景色はこの世のどこよりも美しく見えた。

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茜色に染まる空の下に並んだ鉄塔が

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み空行く
雲にもがもな
今日行きて
妹に言どひ
明日帰り来む

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まるで巨大な墓標みたいだった。

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ひさかたの
雨は降りしく
なでしこが
いや初花に
恋しき我が背

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『おかえり』と迎えてくれる家庭も、暖かい食卓を囲む家庭も、そんな当たり前のことが、彼女の住む家にはなかった。
両親も、担任の教師も、周りの大人たちもクラスメイトも、彼女には憎く見えていたらしい。
そんな話をしていた時、私のことも嫌い?なんて聞いたら傘を回して静かに笑っていた。

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思ひ出でて
すべなき時は
天雲の
奥処も知らず
恋ひつつぞ居る

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気が付いたときには生活の中で『右に倣え』と意志を奪われていた。
それが当たり前だと育っていつからか、どうして生きているのかってっ疑問を抱くようになった。
誰だってちょっとずつ不幸なできごとと突き当たる。だから自分の不幸を嘆くことなんてない。
どんなに傷ついても彼女は生きていた。そんな彼女が私には必要だった。

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何もない日々に混ざっていって、こうして少しずつ思い出も風化していくのだろうか。寂れた街に広がる、雨上がりの澄み切った空気や、誰かが奏でる未完成な音色、そしてこの第4地区の片隅から眺めるだけが自分の世界の全てだった

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あかねさす
日の暮れゆけば
すべをなみ
千たび嘆きて
恋ひつつぞ居る

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夕闇は
道たづたづし
月待ちて
行ませ我が背子
その間にも見む

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春雨
やまず降る降る
我が恋ふる
人の目すらを
相見せなくに

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黙もあらむ
時も鳴かなむ
ひぐらし
物思ふ時に
鳴きつつもとな

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見わたせば
向ひの野辺の
なでしこの
散らまく惜しも
雨な降りそね

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ひさかたの
雨も降らぬか
蓮葉
溜まれる水の
玉に似たる見む

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陽の差さない土の中で息を止め続けているような毎日だった。
少しでも前に進もうと、人並みの人生を送っていたはずだった。
病気がちだった体も昔よりはだいぶ良くなったのに、この痛みは今も癒えない。

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思ひ出でて
すべなき時は
天雲の
奥処も知らず
恋ひつつぞ居る

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夕焼け空が昏れる蒼に落ちた街に、忘れかけていた誰かの姿を映している。
未だ溶けないわだかまりを消そうとただひたすらに今日まで生きてきた。
気が付けばこの街を出てから3度目の冬を迎えようとしていた。

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黙もあらむ
時も鳴かなむ
ひぐらし
物思ふ時に
鳴きつつもとな

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『自ら願って生まれたわけじゃない。歩き疲れたから立ち止まって泣いてもいい。』
彼女の言葉が、温もりが私を今も生き長らえさせているのに、
私は彼女が消えたこの場所に来ても何もしてあげられない。

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あかねさす
日の暮れゆけば
すべをなみ
千たび嘆きて
恋ひつつぞ居る

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ひさかたの
雨は降りしく
なでしこが
いや初花に
恋しき我が背

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彼女を失ったあの日から、とっくに私は死んでいたんだと今になって思う。心臓をどこかに落としてしまったのだ。この世のどこかに、あるいはこの第4地区の片隅で。

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人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない。

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《6月》

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いくつかの五月雨雲が通り過ぎ、道行く人達が薄手の服を着るようになり、夏を間近に感じ始めた頃。私の痩せこけた空虚な生活に、ささやかな楽しみができていた。
前よりも軽くなった足取りで喧騒をかき分け、私はいつもの屋上へ向かう。

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ひさかたの
雨も降らぬか
蓮葉
溜まれる水の
玉に似たる見む

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仄暗い校舎の塔屋を抜け出せば、そこにはいつもの彼女が待っていた。
私たちは歌を作っていた。誰かに聴かせるわけでもない、自分達だけの歌を。
小さい頃に親の見栄でピアノを習わされた時はつまらなかったのに、今はこんなにも楽しい
彼女が奏でるギターにでたらめな歌を乗せる、そんな遊びをしていた。
お菓子の歌とか、動物の歌とか、花の歌とか、くだらないものばかりだったけれど。

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雨が降ってきて、私たちは傘の下にいた。
錆びたフェンスから望む街にはいくつも雨傘が咲いていた。
雨の雫がコンクリートにぶつかって跳ねる音がする。
「そろそろ帰ろっか」
「うん」

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我が宿に
咲けるなでしこ
賄はせむ
ゆめ花散るな
いやをちに咲け

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彼女は洗いざらい話した。慰めてほしいわけでも、同情してほしいわけでもなかった。
「明日なんて来なければいいのにね」
しばらく続いた無言を破った突拍子もない言葉。彼女は私の手を握る。
手入れの行き届いた爪、白く細い指。
彼女の決して暖かくないその手は、確かに私に温もりをくれた。

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雨降らず
との曇る夜の
ぬるぬると
恋ひつつ居りき
君待ちがてり

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前に街の片隅の高台からこの地を見下ろした時にした話を思い出す。
いつかどこか遠い場所に行こう。この狭い街から抜け出そう。そんな約束をしたっけ。これから先も二人の人生は続いて言って、それが当然のことなのだと、何の迷いもなく思っていた。

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踏切を渡る途中、カンカンと遮断機の音が響いた途端。
彼女は屋上のベンチに楽譜を忘れたから取りに行くと言い、
先に帰るよう促され返事をする間もなく、矢継ぎ早に彼女が駆けて行く。
二人を隔てるように遮断桿が降り、すぐに電車が通過して彼女の後姿を遮る。
その日以来、私は彼女に会うことはなかった。

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雨の中にいると、あの日のようにそっと彼女が傘を差し出してくれるんじゃないかと思ってしまう。

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み空行く
雲にもがもな
今日行きて
妹に言どひ
明日帰り来む

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明日は雨が降ることを願っていた。

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