廻想録:I “if”

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高い建物に四方を囲まれた、都市部の狭い空の下。

大気には初冬の気配を醸し出す粉雪が静かに舞い、積もることなく溶けていくそれが地面を僅かに濡らしている。

たくさんの人が行き交う、百貨店の前の小さな広場。
そこで私は、初めて彼女の歌を聞いた。

だれかの心臓になれたなら
廻想録:I “if”

透き通るような声をしながらも力強く、伸びやかで美しい歌声。

冬の冷えた空気を震わせながら伝うそれが、私の耳を通り躰中に染み渡っていく。

学生に服を着て、アコースティックギターを弾きながら歌う、美しい長髪の少女。

後に彼女から、あの時の歌の名前を教えてもらった。

『生きるよすが

その名の通り、それは私にとってのよすがとなった。

彼女に憧れて音楽を始め、気が付けばもう6年程が経った。

彼女は、私に≪リノ≫という名前をくれた。
楽家としての私の名前。それはもう一人の私。
それは本当の私。それは偽りの私。

その名前が今、街頭の巨大なディスプレイに映し出されている。私はそれを見上げながら、物思いに耽っていた。

私自身に、本当の価値なんて無いように思う。所詮は彼女の真似事をしているだけ。彼女に倣うだけの、偽物だ。

書き込んだ五線譜の中にも、詩を書いたノートの中にも、私はずっと彼女の面影を見ている。
ただ彼女を追いかけているだけだ。
リノという存在は彼女が作ったものと言ってもいい。

音楽の神様がいるとしたら、その神様に愛されていたのはきっと彼女の方だ。
なぜ彼女ではなく、私が生きているのか。今もわからない。

彼女と言葉を交わした最後の日。遮断桿の向こうで笑みを浮かべる彼女の姿が、今も灼きついて離れない。

また彼女のことを歌にした。もう彼女も呆れていると思う。
でも、それでも、何度だって彼女を綴る。

全てが過去に、思い出になって遠ざかっていく。時が経つにつれ、まるで何もかも最初からなかったみたいになるのが怖かった。

悲しみを乗り越えるだとか、前に進むだとか、私にはどうだってよかった。
何とも思ってない、なんて自分に言い聞かせて、そうして大人ぶったところで、結局全部嘘でしかないし、もっと大切なものを失くしてしまうような気がした。

言いたいことなんて本当は何もないのかもしれない。このどうしようもない気持ちが、行き場のない思いが、無様に命が叫んでいるだけだ。

全部嘘なんだ。偽物なんだ。こんな歌を歌う度に、彼女の言葉は私の爛れた内殻を突き破っていく。

彼女と初めて会った日のことを、私はよく覚えている。雨の日のバス停。傘を差し出してくれた彼女。

あの日の天気予報を知っていたら、あの時間のバスに乗らなかったら、それだけで全てが違っていたのかもと、今になって思う。

それは間違っていたのだろうか。正しかったのだろうか。

正解なんて無い。きっと彼女ならそう言う。

そして、間違いだってないのだと。

彼女と会わなければ、あの日は何の変哲も無い、ただ過ぎていくだけのありふれた日常の一片でしか無かったと思う。

歩き慣れた道から見える景色も、聞き馴染んだ曲の歌詞も、よく知っている物語も、彼女と出会ってからは違ったものになった。

そして、彼女を失ってからも。

ねえ、ユマ。

こんな命が無ければ、私たちは最初から何も失うこともなかったのかな。

傷も、過ちも、悲しみも、苦しさも、嘘も、痛みも、知らないままでいられたのかな。

こんな命が無ければ——

だれかの心臓になれたなら 廻想録:II “world” - ユリイ・カノン楽曲 カットアップノベル