こんな命がなければ

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闇の夜は
苦しきものを
いつしかと
我が待つ月も
早も照らぬか

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彼女は自分の人生を恨んだ。
遊ぶことに夢中になって、帰るのが遅くなった泥だらけの自分を優しく叱ってくれる母親が欲しかった。

彼女は自分の人生を恨んだ。
誰よりも勉強してとった、クラスで一番のテストの点数を褒めてくれる父親が欲しかった。

彼女は自分の人生を恨んだ。
暖かい食卓を囲む家族が欲しかった。おはようを言ってくれる家族が欲しかった。おやすみを言ってくれる家族が欲しかった。

家族が欲しかった。

彼女はまだ知らない。

朝。私はいつものように家にいる誰よりも早く起きて、学校行きのバスに乗る。私がいつも座るのは後ろから二番目の窓辺の席。だが今日は先客がいた。そこに座る女の子は私と同じ制服を着ているが、初めて見る子だった。私は迷った末に隣に座る。女の子は私の気配に気づいて窓側から私の方へ一瞬視線が移ったが、また外の景色へと戻る。
学校へと一番近いバス停が見えて、私と隣の子は同じタイミングで立ち上がる。途端に強い雨が降り出してきた。傘を持っていなかった私はバスを降りるとひとまずバス停の屋根の下へと逃げ込む。まだ時間もあるから、止むまで様子を見ようかと考えながら立ち尽くしていた時だった。
「一緒に行こう」
バスで乗り合わせた女の子が赤い傘を私の頭上に差し掛けた。「あ......うん、ありがとう」
高校一年。街の木々の紅葉が散り始めた冬の前のことだった。

私はまだ知らない。

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ひさかたの
雨も降らぬか
蓮葉
たまれる水の
玉に似たる見む

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思い出の中の彼女は、いつも私に笑いかける。

彼女と初めて会った日のことを、私はよく覚えている。彼女と会わなければあの日は何の変哲も無い、ただ過ぎていくだけのありふれた日常の一片でしか無かったと思う。
歩き慣れた道から見える景色ですら聞き馴染んだ曲の歌詞ですら、よく知っている物語ですら、彼女と出会ってからは違ったものになった。
歌も、言葉も、人生の価値も、笑い方も、嘘も、優しさも、生き方も、彼女が教えてくれたその全てが今の私を創っている。

彼女は間違いなく、私の世界を変える一因だった。

いや、今でも彼女は私の世界のすべてと言える。

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この駅に一人で来ることは初めてで、迷わない等に慎重に案内板を探し、少し歩いてはまた案内板を見るというのを繰り返しながら目的の店に向かっていった。
屋外に出ると刺すような冷たい空気が体をすり抜けて私は肩を窄める。灰色の空から細かい雪がゆっくりと降りてくる。首に巻いたマフラーに顔をうずめて、少し速い足取りで歩いていく。
目的の百貨店の前には広場があって、そこではよく大道芸だったり、路上ライブが行われたりしている。今日も誰かが歌っているのが遠くのほうからぼんやり聴こえた。近づくにつれ鮮明に聴こえてきたその歌声に私は思わず息をのんだ。澄んだ声質なのに力強く、伸びやかで美しい女性の歌声が冬の空気を伝い耳を通り躰中に染み渡っていく。
人集りの隙間から歌声の主の姿を覗く。艶のある長い黒髪に、白い肌、知的さと勇ましさのある眼差し。学生服を着てアコースティックギターを弾きながら歌う、美しい少女。その顔には見覚えがあった。前にバスで会って、傘に入れてくれた子だ。そしてあの時名前を聞きそびれたことを今更になって思い出す。
氷漬けになったようにじっと眺めているうちに曲が終わり、少女は深々とお辞儀をする。観客の一人が、少女の前に置かれたギターケースの中にいの一番にお金を入れると、つられたようにほかの観客もお金を入れる。「良かったよ」といった言葉を銘銘が言いながらお金を入れていき、少女は一人一人に感謝をしている。私と歳も変わらないのに、こうして音楽を通じて人を感動させることができることに、心を打たれた気分だった。

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路上ライブが終わって帰る準備をしている彼女に私は声をかける。
「あの......歌、すごくよかったです」
前に話したはずなのに妙に緊張しいて無意識に敬語になっていた。
「さっき聴いてくれてたよね。ありがとう」
「よくここで歌ってるの?」
「うん。月に二回くらい。ちょっと遠いけど、学校の人に路上ライブしてること知られたくないからここまで来てる。.......まあ見られちゃったけど」
そういいながら彼女は少し恥ずかしそうな素振りを見せる。地面に置かれたボードが目に入る。そこにはユノと書かれている。
「ああ、それ芸名。師匠につけてもらった名前」
「そうなんだ。可愛い名前だね」
本名を聞こうとした瞬間、彼女はそれを予見していたように言う。
「自分の本当の名前好きじゃないんだ。だから前も君に名乗らなかった。ごめんね」
「ううん。気にしないよ」
彼女はギターを入れたケースのファスナーを閉めると、立ち上がってケースを背負う。ケースが大きい分、華奢な彼女がさらに小さく見える。
「ユマって呼んで」
「ユマ......」
私が名前を呟くと彼女は微笑んだ。
それが私が見た、彼女の初めての笑顔だった。

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「北校舎の屋上で待ってる」
ユマからの連絡がきたのはそれが初めてだった。
去年末の路上ライブで遭遇したあの日に連絡先を彼女のほうから聞いてきたのだが、それから年も明けて冬休みが終わり、三学期に入ったころだった。

帰りのホームルームが終わって教室を出たところでかかってきた、彼女からの電話。一言だけ告げて、すぐに切ってしまった。よくわからないが、とにかく行ってみるしかない。

北校舎は学級ごとの普通教室がなく、音楽室、理科室、美術教室、コンピュータ室といった特別教室が集まっているので、本校舎に比べると人気が少ない。階段はあまり陽の入らずいつも薄暗い。
屋上の重たい扉を押し開くと、暗い塔屋に一気に光が入ってきて、、私は目を細める。そろりとコンクリートの床に足を踏み入れて数歩進む。
「やあ、久しぶり」
「ひ、久しぶり......」
振り返ると、そこにはベンチに腰掛けたユマがいた。彼女はベンチの空いた場所を手でとんとん軽くたたいて、そこに座るように促す。
「いつもここにいるの?」
「たまにね」
ベンチに座ろうと寄る時、ベンチ脇に立て掛けたギターケースが目に入った。
「ギター、学校に持ってきてるんだ?」
「うん。いつも登校したときに軽音の倉庫に置いてる。一応軽音部なんだ」
「部室でやらないの?」
「たまにバンドのギターが足りないとかって誘われて、やったりするけど基本的には一人が好きだから」
「へー......」
"一人が好き"という言葉と、この子の雰囲気的に軽音部の他の部員とは馬が合わないのをなんとなく察する。文化祭で見た軽音部のバンド演奏は彼女がやりたい音楽とは確かに違う。
「今日はどうして私を?」
私がそう尋ねると、ユマは少し遅れて答える。
「君に興味がある」
ユマは膝に肘を立て両手で頬杖をつきながら私の顔を覗き込む、彼女に見つめられて私は思わず頬が紅潮する。
「な、なんで?」
「うーん」
彼女は視線を遠くのほうに向ける。
「あの時......路上ライブの時、私を見ながら泣いていたから」

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ユマが唄って聴かせてくれた沢山の歌を私は今でもありありと思い出せる。レコード盤に針を落としたみたいに、彼女の声が鮮明に聴こえてくる。
私は彼女の作る曲が好きだった。架空の街の歌だとか、離れ離れになった二人の歌だとか、彼女の曲には物語があって、それを彼女が語り手として歌う。私は歌を聴きながら目を瞑って頭の中に映像を映し出して、彼女の作る詩の世界に没入していた。
彼女は本が好きらしくて、その影響で自分で物語を作りたいと思うようになったというギターは小学生の時に離婚して疎遠になった元父親から、中学生に上がったころに譲り受けたものだと言っていた。

彼女の意志に寄り添うように、そして彼女を少しでも理解したくて、音楽を続けてきた。私は音楽家としての彼女の姿ばかり見てきた。私は、私が思っている以上に彼女のことを知らないのかもしれない。彼女は、自分には才能がないとよく零していた。ピアノをやっていた頃、母親にはほとんど諦められていたとか往年の音楽家の話をしては私はこんな曲を作れないとか、そんなようなことを。
それでも彼女は音楽に対する姿勢を崩すことは無かった。挫けることを知らず、ひたすらに心血を注いだ。眩しくて、気高くて、美しかった。私はただただその背中を追っている。どんなに歩いても、その距離は縮まった気がしない。

またユマのことを書いていた。
彼女を歌って、この傷を抉って、消えない過去を呪って、それでいつか何かが変わるんだと、漠然と思っていた。ユマも呆れるだろうな。こんなに過去ばかり引き摺って。
でも、もう何とも思ってないなんて大人ぶったところで、嘘でしかない。もっと大事なものをなくしてしまうような気がするんだ。
言いたいことなんて本当は何もないのかもしれない。このどうしようもない気持ちが、行き場のない思いが、無様に命が叫んでいるだけだ。

ねえユマ。こんな命がなければ、私たちは最初から何も失うこともなかったんだろうか。傷も、過ちも、悲しみも、苦しさも、嘘も、痛みも、知らずにいれたんだろうか。

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「だいぶ上手くなった」
「そうかな......ありがとう」
正直言って、まだユマと比べると雲泥の差だ、それでもユマが褒めてくれる度に、もっともっと上手くなりたいという気持ちが強くなる。
彼女からギターを教わって半年程、ユマは、自分より上達が早いと言っていたけれど、やはり数年の差は簡単に縮められるものではないとリノは痛感していた。
「リノはきっと私より上手くなる。ギターも、歌も、曲作りも」
「そんなわけ......」
「ある」
ユマは遮るようにぴしゃりと言った。彼女のその目は至って真面目だった。その言葉に納得できるほどのものを自分は持っているとは思えないが、彼女の屈託のない眼差しにリノは根拠のない自信が少し湧いてくる気がした

「あの曲、聴かせて」
「うん」
リノは大きく息を吸い込み、吸った分だけ息を吐いて調子を整える。ギターを持ち直し、左手で曲の頭のコードを抑えて、ピックを持った右手を構える。なんだか緊張する。こんなところで緊張しているようでは、ステージに立ったら気を失うんじゃないかと思う。
白んだ日差しが屋根の隙間から溢れて、ギターのペグが光を反射させている。リノがもう一度息を吸うと、次の瞬間静かな空間をギターの音と歌声が覆った。ユマをそっと瞼を下ろして、彼女の歌と演奏に耳を傾ける。
それはリノが初めて作った曲。ユマはこれを最初に聴いたとき、体の内側から熱いものが込みあげてくるような感覚になった。心に響くというのはこういうことなのだと理解した。それと同時に、心の隅にはくやしさが滲んだ。

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「将来の夢ってある?」
私は白紙の進路希望調査票を見つめながら言う。
ユマはギターを弾く手をすっと止めると、私の方を見た。ふふ、と何か含みのあるような笑みを見せる
「秘密」
「え」
予想外の応えに一瞬呆気にとられてしまった。
すぐにユマは止めていた手を動かし、これ以上の追及は許さないと言わんばかりにまたギターを弾き始める。同じ楽器なのに彼女の奏でる音は私のそれとは本当に違って聴こえる。どうしてこんな風に弾けるんだろう。なんてことを考えながら眺めていた。
「強いて言うなら......」
ユマは一呼吸おいて言う。
「音楽で世界を救う......とか?」
そういうとユマは、らしくないことを言ったという感じに少し照れたような仕草をして軽く笑ってみせる。私の知る彼女はあまり冗談を言うような人では無かったから、これまた呆気にとられる。
「まあ特に将来のことは考えてないよ」
それが嘘なのか本当なのか、それを判断するには彼女の見ている世界はあまりにも違って思えた。

--あの時、ユマは冗談のつもりで言ったのかもしれない。音楽で世界は救えないかもしれない。けれど、間違いなく私はあなたの音楽で救われたんだよ。

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私は小さいころから数年前までピアノをやっていた。特別音楽が好きだったからじゃない。母がプロのピアニストだったこともあり、物心がつく頃には日常にはピアノに触れる時間が当たり前のようにあった。当初父はギターを薦めていて、ピアノをやらせるかギターをやらせるかで揉めたことがあったらしい。ピアノはずっと母に習ってはいたが、母が褒めてくれることはほとんど無かったと思う。始めた頃はそうでもなかったのだが、歳を経るにつれ母の期待するラインを越えられず、"    どうしてこんなに出来が悪い"と母が思っていることを子供ながらに感じていた。反対に、父はよく褒めてくれた。ピアノコンクールで銀賞を取った時も母は不満そうにしていた。私は母に認められたいという思いと父の応援を意欲にピアノを弾き続けた。高学年に上がる前に両親の離婚が成立し、私は母と暮らすことになった。ピアノは小学校高学年くらいまで続けたが、ある時からすっかり弾かなくなってしまった。ピアノを弾かなくなった私に母は何も言わなかった。

中学一年の夏の前のある日、私宛に手紙が届いた。差出人の名前は元父親だった。真っ白いシンプルな封筒には何も書かれておらず、中の便箋には数行の文章だけがあって、それはある場所と、そこにいる荻野という人物に会えということが示してあった。

私は後日その手紙に書かれている場所に向かった。電車を二つ乗り継いで、辿り着いたその場所は古い楽器屋だった。店内にはギターを中心に沢山の楽器が所狭しと置かれている、古びた印象の店先とは違い、店内は案外綺麗だった。
おずおずと店の奥のほうへ進んでいくと、作業台でギターのメンテナンスか何かをしている男性が見える。私は荻野という人物について尋ねようと声をかけると、その男性の胸元には荻野と書かれた名札がついているのが見え、私はすぐに父親の名前と、その娘だということを男性に伝える。すると待っていたよとひとこと言うと、奥の部屋から何かを持ってきた。それを私は父の自室で見たことがあった。浅い黒色をしたセミハードのケースになかには白いアコースティックギター。何度か私にそのギターを弾いて聴かせてくれたことを思い出して、少し寂しくなる。ギターの他には手紙らしきものとノートが入っていた。ノートはギターのコードや、弾き方のコツなんかが書かれていて、さながら手書きの教則本になっている。そして荻野さんは父の話をしてくれた。

母には内緒にしておこうと思った。あの母のことだから、これを見つけたら癇を立てるのは容易に想像できる。普段は自室のクローゼットに隠すことにする。思えば、母と夕食を一緒に食べることも滅多になくなった。昔から仕事人間で、父がいなくなってからはそれがさらに付勢した。母は厳しかったが、母なりに私のことを思ってくれていることは理解していたから私も余計なことは言ってこなかったし、やっかい事を持ち込みたくはなかった。

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音の無い日常になれることはなかった。日を増すごとに、私の世界から色が失われていくのを感じていた。部屋の隅でそのままになっている壊れたギターを眺める。まるで自分を見ているような気分だった。もう直せないのだ。治らないのだ。
あれから母とは顔を合わせていない。言い争った日の夜、扉の向こう側で何かを言っているような気配を感じたが、その言葉を聞くことができない。そもそも母は私がこんな状態になってるだなんて思ってもいないだろう。
リノからの連絡も、ずっと無視してしまっている。最後に会ったのはいつだったけ、......もう三週間くらい前か。どんな顔をして会えばいいんだろう。

二回目の診察で回復の見込みがないと知った日、私は声が枯れるまで泣き叫んだ。自分がどんな声を出していたかもわからない。ふと、亡くなった父を思い出す。父がどんな思いを抱いて死を選んだのかわかった気がした。どうしようもない現実に直面した時に、死こそがそれを逃れる道だと気付いてしまった。

ベートーヴェンの『悲愴』が頭の中で流れる。"悲愴は音楽家の命である聴覚を失うことを悲しんだ嘆きの曲"とどこかで聞いたことがある。ベートーヴェンは若いころから難聴を患い、四十歳頃には全聲となったが、それでも作曲を辞めなかったという。

少し埃をかぶったピアノの鍵盤蓋を開く。
指を鍵盤の上に翳すだけで、手の震えが止まらない。大きく深呼吸して、小さい頃に何度も何度も練習した『悲愴』を弾き始める。
ずっと弾いていなかったのに、指が覚えているのかすらすらと鍵盤を押していく。
私の世界には音は鳴らない。確かにこの部屋に私の演奏は鳴っているのに、私にはそれが聴こえない。まるで私だけがこの世界から置き去りにされたみたいに。

私はもう歌えない。私はベートーヴェンのようにはなれない。

消えてしまいたい。

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どんな世界も君がいるなら
生きていたいって思えたんだよ

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僕の地獄で君はいつでも絶えず鼓動する心臓だ

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満ちては欠ける月のように
この心もまた形を変える

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今を この時の思いも
歌にしてとじ込められるかな